意表をつく慈しみ

昨日のこと。
昼間、野暮用があり地元の駅前まで自転車を走らせると、
商店街通りで夏祭りが開かれていた。
もう8月が始まったのか。
年を取るごとに時間の流れが急速に感じる。

帰路。
せっかくだし少し巡ってみようと思ったが、
酷暑のなか目に映るは人、人、人。
地面のタイルが見えないほど人であふれている。
瞬間、とてつもない気だるさを感じて断念した。
あんず飴食べたかったんだけどな。
氷塊の上に水飴に塗れて並べられているほどよく冷えたそれを。

自宅までの途中、信号待ちをしていると、
見知らぬ子ども2人が遅れて隣に並ぶ。
運動服を着ていたからおそらく地元のリトルチームの練習帰りだろうか。
子どもが地面のほうを見てつぶやく。「あ、蝉だ。」
思わず子どもの視線を見やると路肩に蝉の死骸が転がっていた。
まだ夏は始まったばかりだというのに。早くないか?

そういえば誰かが話してたっけ。
今年の6月は梅雨の期間が短く、早々に夏の気温になったことで
蝉の調子がどうも狂ったと。羽化に失敗する個体が増えているらしい。
いま視界に映っている蝉だったものも成虫というよりか、色が緑がかっていたのでその例に該当するのだろうか。

嫌な予感がよぎる。
子どもは純真無垢である反面、精神の未熟さから一定の残虐性を持ち合わせている。
それは「知的好奇心」が原動となり発揮されるもので、
実際、私が幼少だったころにも蟻の巣を水攻めする、草船に団子虫を船員として迎え、池にて終わりなき航海を始めてその末路を見届けるなど数多もの命が「好奇心」によって消費されてきた。
(それと同時に命の尊さを学んだわけではあるが)
ぶっちゃけ虫相撲もこれに該当すると思う。
いま隣に並ぶ子どもたちはこの蝉だったものをどうするのだろうか。
好奇心になぞらえてドリブルでも始めるのではないだろうか。

杞憂だった。むしろ私のほうが正気ではなかったのだと思う。
蝉だったものを見つけた子どもは声のトーンを落として「かわいそうだね。」
別の子どももその哀悼に同調する。
子どもたちは夏の空に羽ばたけなかった蝉を憐れんでいる。
私の意表をついたその慈しみに思わずぐっときてしまった。

信号が青に変わる。
私は水でも浴びて早々に頭を冷やしたい。
帰路を急いだ。